春の多摩川(1)玉川温室村

 
 更新ものすごく遅れてすみません。

 今回特集するのは玉川温室村です。玉川温室村とは、玉堤地区、田園調布4,5丁目一帯にあった戦前の東京府の園芸栽培の栽培拠点の一つでした。ここの特産物はカーネーションでした。カーネーションの栽培は大正時代から始まり、昭和初期にピークを迎え、戦時中に衰退を始めました。
 今は温室村の象徴であるカーネーション栽培用の温室はほとんど消えました。70年代に玉堤に住んでいた友人に聞いたところ、当時すでに荒れ果てた温室が多かったそうです。
 ところで、なぜこれほどまでにカーネーションの一大産地になったかというと、六郷用水や多摩川の水利、国分寺崖線の天然の防風林があったためだと言われています。

 1923年に測量された地図には、農業関連施設が2件しか載っていませんでしたが、1939年に測量された地図には25件も載っています。ちなみに養豚場もありました。




今回は玉堤分水(仮)という玉川温室村中央部を西から東に流れていた用水路を軸に話を進めます。

六郷用水から玉堤分水(仮)は玉根橋上流の堰から分水されていました。流路は比較的分かりやすいです。

まもなく目黒通りと交差。目黒通りを川崎方面まで延伸させる構想がありますが、一切の動きなし。

 八丁土手跡地。ここは、玉堤2−11。てくたくぶっく等々力渓谷コースより引用『玉堤小学校南側の道路が、多摩川の堤防に、突き当たるまでを、むかしは八丁土手と呼んでいました。高さ五尺ぐらいの土手で、施工者はやはり小泉次代夫と考えられますが…』 
5尺は約151.5cmで、江戸時代の成人(男性)の平均身長より少し低い(現在の12歳の平均身長とほぼ同じくらい)。

八丁土手のちょうど内側にある流路。




たくさんある暗渠たち。おそらく田畑の間を巡っていた農業用水路の一部でしょう。

玉堤分水(仮)は道なりにまっすぐと進みます。この先数ブロック先で痕跡が消えます。この辺りにはたくさんの温室があったのですが… 名残もありません。強いて言うのなら、大きめの区割りがその名残です。






田園調布特別支援学校の裏にある暗渠。行き止まりですが、学校の東側に流路の続きと思われる暗渠が現れます。

こちらがその水路。




次回は御鷹野圦を特集します。

春の多摩川シリーズ
(1)玉川温室村
(2)御鷹野圦
(3)田園調布1丁目&田園調布本町探検part1,part2
(4)砂利用軌道跡
(5)宝来川(仮)
(6)2つの橋と多摩堤通り
※急きょ予定変更をする場合があります



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今回の記事で2年目に突入しました。ありがとうございます。
 
参考文献:てくたくぶっく等々力渓谷コース、地図から見る大田区第17集、26集