沼部の引き込み線

お待たせしました、更新です。

おくれてすみませんでした。


机上レポートだからといって、がっかりしないでください。でも、レポートというよりも自由研究みたいなものです。

目次
1.導入
2.机の上で動く
3. 思いがけない結論
↑今回もクリックするとその項目に飛ぶ仕掛けです。


1.導入


 さて、『地図で見る大田区』シリーズをペラペラとめくったところ… こんなページにこんなものが書かれていたのです。


大田区文化財 第24集 地図で見る大田区(1) 26.昭和30年代の田園調布方面』より引用・一部加工。地図は1955年修正測量のもの。

土手に軌道??? 

 地図から軌道は単線とわかります。 目蒲線沼部駅付近の東海道貨物線(現横須賀線)から分岐し、盛土の状態で道路や水路を跨ぎ、多摩川の堤防に合流、堤防に沿って走り、現「特別養護老人ホームたまがわ」に向かいます。特別養護老人ホームたまがわは昔は、「三菱日本重工東京工場」。昔の輸送は鉄道命でしたから大規模な工場に引き込み線があっても不自然ではないです。
 また、軌道に関しては、堤防の上や脇を走ることは用地の点からも理にかなっているのように感じられます。以前紹介した多摩川の砂利軌道もそうでしたし… 

それにしても、高度経済成長前の多摩川沿いはのどかだったんでしょうね。


その沿線のイメージをふくまらせる写真。

その軌道跡の脇にできた水門。大田区田園調布南4−13


貨物列車のイメージ。今回も足成さんから画像をお借りしました。ありがとうございます。

 いままで何回も読んでいた、いや、観察していたのですが初めて気が付きました。自分の観察眼の欠如に呆れました。もともと先入観でものを観察しやすい性分なのですが。
それにしてもいったい何なんでしょうか?



2.机の上で動く
 「そうだ、直接伺おう!!」と思い、その引き込み線の終点だったと思われる三菱重工さんにお問い合わせ先が不明な場合のお問い合わせ先でお伺いました。
さてその回答は日後に頂きました。引用します。


お問い合わせありがとうございます。
残念ながら当時の引き込み線につきましては、資料が無く当社のものであるかも確認できません。
当時、ご質問の地域には三菱日本重工業(株)東京製作所があり、主力製品としてブルドーザ等の建設機械を生産しておりました。また、この工場の名称は昭和30年代組織の変遷を経て、何度か変更されております。
上記の内容程度しか回答できませんが、この内容であれば貴殿指定のブログに掲載して頂くことは構いません。
以上宜しくお願い申し上げます。

三菱重工業(株)
機械・設備システムドメイン
事業戦略総括部 相模原管理部
総務・環境課
浮ヶ谷






 フォームを休日に送信。送ったのが未明なので『ご回答No.1』(ただ単に回答1ページ目という意味かも)。そして、その週の初めての平日に届きました。思ったよりも早くて、しかも、届いたメールに詳細のページのリンクが貼ってあったのでぬか喜びをしました。まあ、結構昔のことですし、本当にわずかな期間に存在していたようなので、資料が残っていなくても仕方ないですね。でも、わざわざ、ご返事くださってありがとうございます。

答えがなかなか見つからないっていいですよね。最終的には見つけたいけど。



今度は手持ちの資料からアプローチをします。


 これが書かれたのは1960年(発行は1963年)。この場所の後の年代の地図や航空写真は、沼部付近で分岐した後の盛土の跡地と思われる弧を描いている空き地などが見受けられました。また、東急多摩川線との立体交差地点には横須賀線の東側に不自然に広い敷地と橋台跡があり、その場所は地図上の分岐場所と一致します。それは、googleさんのストリートビューを傾斜してよく見るとわかります。ですからここに軌道があったことは間違いないと思われます。


 『大田区文化財 第25集 地図で見る大田区(2) 129ページ』より引用。昭和59年(1984年)の航空写真。わかり辛いですが、東急多摩川線(縦の線)と横須賀線(横の線)の立体交差付近から多摩川に向かって弧を描く線があります。ちなみに、この曲線の多摩川側(西半分)はマンションが建ったので消えました。



3.  思いがけない結論
さて、人がだめならあらゆる古地図や区史を探そうと思い、インターネットで探してみました。すると…


 なんとすでにこの物件既出。この本の100ページ目に『品鶴線*1下丸子三菱重工引込線』として載っているそうで…

鉄道廃線跡を歩く〈7〉 JTBキャンブックス

鉄道廃線跡を歩く〈7〉 JTBキャンブックス

一番乗りだと思ったのですが… 残念です。まあちゃんと下調べしとけという話ですが。


 おまけにwiki『丸子信号場』までもあるなんて、しかもよそさまがそれぞれ至高を凝らした記事を書いていらっしゃるなんて。当時の写真らしきものも載っているものもありました。

 まとめると、1949年末からあったこの引き込み線は、在日米軍(GHQ)の管理下におかれていた、三菱日本重工業東京製作所で修理する戦車を搬入のために使用されていたそうです。1950年頃の朝鮮戦争中は大量の戦車が送られてきたましたが、休戦すると貨物列車(汽車らしい)の入線は激減、1956年6月末に米軍管理が終了すると使用されなくなったそうだとか。ちなみに、引き込み線が通っていた盛土は、東海道新幹線の建設が始まるころまで残っていたそうです。先ほどの地図は1955年修正測量ですから、ほぼ廃線状態の時の軌道が描かれていたみたいです。


おわり






次回の更新は未定ですが、北古川とかを特集しようと思います。

*1:横須賀線の品川ー鶴見間の名称