第2回インドアツアーズ:佐倉市(4)

前回までのあらすじ:佐倉城址に行くところです。

 今回は佐倉城址国立歴史民俗博物館の一部を探検します。


うぬんと、坂を上ります


-10th 歴史博物館の前にて


 急坂を上ると、目の前に駐車場と広場が現れました。歴博の入り口の大階段の下にはバス停があります。そこは、大病院のバスターミナルのようになってました。


大階段を大階段正面の築堤から撮影。広いですね。




歴博佐倉城址の前についたので、史跡探検のまとめを作ります。

佐倉城址専用の地図です。これで佐倉城址を巡るのですが・・・
今回の目次です。

  1. 姥ヶ池
  2. 菖蒲田
  3. 空堀たち
  4. 二の門跡

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 佐倉城は、1532年から1552年に千葉氏の一族である鹿島幹胤かしまもとたね鹿島台に築いた中世城郭を原型として、1611年から1616年に造られた平山城でした。千葉氏とは下総の豪族で、守護大名戦国大名となった一族のことです。ちなみに、この城を造ったのは1610年に佐倉にやって来た土井利勝です。
 土井利勝安土桃山時代の武将・江戸時代前期の譜代大名です。ちなみに、江戸幕府の老中・大老という大役も務めました。
 

ローターリー前を歩いていると…

斜面を下る階段と会いました。こういうタイプの谷底には基本的には池があります。確認してみましょう。




-11th 姥が池

階段を下ると・・・


 一面がハスの姥が池が見えました。奥には噴水、周りは草むらと林。これだけ蓮が生えていると、辺りが暗い時はどこが池なのか草むらなのか分からなくなってしまいます。


 姥ヶ池の説明です。前半は明るい話、後半は暗い話と非常に明暗がはっきりしています。あるあるですが、お城の傍の池には入水の悲話が多いです。こんなに蓮が生える前はかきつばたの名所だったのですか…


 かきつばたの画像。フリー写真素材 イメージスタイル カキツバタの花 複数 紫4より。かつては、カキツバタが生えられるぐらいの湿地だったそうです。しかし、今の姥ヶ池は頑張れば入水自殺を図れそうな水深のある池になっています(言葉が非常に悪いですが)。このことから、江戸時代中〜後期には湿地からそこそこ水深のある池に変わっていたようです。ちなみにカキツバタは準絶滅危惧種(NT)となっています。

-12th 菖蒲田

 姥ヶ池から南を望むと中央にはいい感じの原っぱ、右の山際には湿地がありました。ここは菖蒲田で、たくさんの菖蒲が見ごろを迎えていました。


菖蒲田の原っぱ。誰もいなかったらねっ転がりたい!! 


見ごろを迎えていた菖蒲達。


 奇跡的に花が残っていました。萎れていますが…
 ところで、よく話題になるのが花菖蒲、アヤメ、カキツバタの違い。アヤメは乾燥した土地に適していて、花菖蒲は湿地や乾燥した土地にも適していて、カキツバタは湿地の実に適しています。また、花弁の根元の色がそれぞれ違い、花菖蒲は黄色の目玉模様、アヤメは網目状の模様、カキツバタは白い目玉模様となっているんだとか… ちなみに、菖蒲湯の菖蒲は葉が似ているだけのサトイモ科で別物です。


木立。



 ところで、菖蒲田の片隅(左側の山際)には… 階段でしょうか 段差が並んでいます。かなりの高さがあり上段から下を見るとちょっとびくついてしまうような気がします。


 段差の幅は新書のたて幅より少し広いぐらいと、余り階段の段差としては実用的ではありません。ところで、このコンクリートの段差の集まりはどこへ繋がっていたのでしょうか?
 実はどこにもつながっていません(当然建物跡ではありません)。これは帝国陸軍の使っていた飛び降りジャンプ台跡だったのです。


 説明板です。佐倉の帝国陸軍について簡単に書きます。
 1884年帝国陸軍歩兵第2連隊が佐倉城の敷地を活用して駐屯地を造った後、1908年に歩兵第2連隊は水戸に移転、代わって、習志野から歩兵第57連隊がやって来て管理しました。ちなみにですが、歩兵第2連隊は1944年にペリリューの戦い(パラオ)でアメリカ軍にかなりの苦戦をさせた後、11月24日に玉砕。歩兵第57連隊はセブ島(フィリピン)で終戦を迎えました。


谷底から丘の上へ掘割の階段を昇ります。その途中で…



-13th 空堀たち


右を振り向くと、小さな谷のようなものが見えました。どうやら立ち入り禁止のようです。これは何かと思い辺りを観察していると…


 なるほど、こういうことですか。たしかにあの谷の上り下りはキツそうですから、結構な防御の役割を買っていたような気がします。このような堀を薬研堀(やげんほり)と言います。薬研とは漢方薬の粉を挽くときに使う道具です。


本丸跡の近くには、こんな感じの深い空堀もあります。これは薬研堀の中でも斜面の急な片薬研堀と思われます。


-14th 二の門跡


二の門の説明です。


 二の門の傍にあった二の丸跡。かなり広いです。規模の大きなものには、二の丸御殿などの居住空間が設けられたそうですが、この二の丸は政治をつかさどる場所でした。このように二の丸には様々な役割がありますが、本丸防衛がメインの役割だったそうです。


次回はついに本丸を探検。さらに、マイナースポット候補(?)、陸軍の史跡を巡ります。